たくろぐ!

世界一のチラ裏

愛を持って人を赦すということ

はじめに

愛を持って生きるということ、これに尽きると思います。

(ただ病んでるだけかもしれません😂😂😂)

きっかけ

最近いろいろ思うことがありまして、恋と愛の違いとか、正義と愛の違いを考えるきっかけがありました。

恋と愛の違い

1つ目のきっかけは好きだった人に振られたことです。

それは恋と愛の違いを感じるきっかけとなりました。

バチェラー4の女性参加者である坂入みずきさんの言葉がとても印象的で、

人は恋をしたときにはフェニルエチルアミンが分泌されます。

その後愛に変わったとき(最初から愛のときもあるだろうけど)、オキシトシンが分泌されます。

これは科学的に恋と愛の違いは明白だということを言っていると思っていて、

ぼくが言うには(主観ということです)、恋は相手を好きになる理由があるもの、愛は理由がないものという違いがあります。

もっとわかりやすく言い換えると、相手を信頼してどんなところも受け入れる覚悟があるかどうかだと思いました。

話を元に戻すと、僕が彼女に振られた理由は彼女がほかの方と付き合うことになったと言われたからです。

ぼくはそのときすでに彼女に対して愛を持って接していましたし、あとは彼女が受け入れてくれるかだけだと思っていました。

そのため、彼女からほかの方と付き合うことになった、と言われたとき、ちゃんと説明をしてほしいと言いました。

(それは人としてあり得ない、人の気持ちをなんだと思っているの、失望したとも言いました)

しかし彼女はその後説明することもなく、僕をブロックすると言って連絡できなくなりました。

(今までぼくはぼくの意見を言うことはあっても彼女を否定したことは一度もありません)

百歩譲ってその彼と最初から愛があったとしても(彼はぼくの知り合いで出会ってから10日程度しか経ってない)、

ぼくに説明することはできるはずです。

でもそれをせず一方的にぼくをブロックした瞬間、ぼくは今までに感じたことのない憤りを感じて体がとめどなく熱を放出していることを感じました。

横になって30分ほどその憤怒の熱がぼくの全身をめぐり、よからぬ思いが脳内をよぎりました。

直接彼女に「地獄へ落ちろ、もしこの後おまえが死んで、仮に葬儀場の住所を知ったとしても、葬儀には出るが、地獄へ行けと言ったことを絶対に後悔はしない」と言ってやろうと思いました。

しかしこのままだと本当にそう言ってしまうかもしれないぼく自身が怖くなって、ふと我に返りました。

そこでぼくが思ったのは、彼らの関係は(少なくとも今は)単なる恋であるということでした(感想です)。

自分たちだけの世界で完結させてしまい、周囲の人の気持ちをないがしろにする独りよがりな生き方だと感じました。

彼女の、周囲から認められる努力を怠って、自分さえよければいい、という考えを見透かした気がしました。

(彼女がぼくのことをどう思っていたのか知る由もないので一方的かもしれないですが)

(単純にぼくのことが嫌いなのであればそれくらい伝えてくれてもいいよね2か月前から5回も会ってるんだし)

その瞬間、彼女がとても不憫に思えてしまい、怒りをぶつける気が起きなくなりました。

人は本来弱い生き物で、他人の力を借りないと生きていけないものです。

だからそういう態度をとってしまうのは仕方ないことだと思っています。

そして残ったのはぼくの彼女への愛だけでした。

ちょっと大げさかもしれませんが、そのときにはもう怒りの感情は消えていて、

彼女に対してシンパシーを感じていました。

そして

そして彼女の気持ちを受け入れて、彼女を愛を持って赦そうと思ったとき、怒りの感情が消えて、熱が冷め、とても安らかな気持ちになりました。

これには自分自身、とても驚いていて、相手を赦そうと思うことのすごさを実感する出来事でした。

正義と愛の違い

正義と愛の関係はとても難しいです。

意外と知られていないようですが、キリスト教の世界では、時として「正義」を「愛」の対立概念ととらえる向きがあります。人は、正しい事を主張されると反論が出来ません。しかし、正しい事を理解しているからと言って、必ずしもそれを実行できないのが人間ですから、正義を強く主張されると、まるで自分が責められているようで居心地が悪い。イライラする。そこで、このように人を追い込み、人を裁く姿勢が、愛とは対極にある・・・と指摘されているのです。

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この文章の最後には、愛と正義は両立すると解釈できる言葉が述べられてますが、それでも愛と正義は対極であると考えるのも想像に難くないと思います。

この違いを意識するようになったきっかけは、ぼくと両親の関係性にあります。

ぼくの両親はバカが付くほど真面目で、とても正義感が強く、ぼくはとても厳しく教育されてきました。

友達とけんかをすればぼくから手を出したわけではないのに、喧嘩両成敗だと必ず怒られました。

子どもながらにとても冷たい親だとずっと感じていて、よその家がうらやましいとずっと思っていました。

あとのことはすべて普通でいいから、せめてどんなことがあっても味方でいてくれる家がいいと思っていました。

その結果、好きな子がいても、好きということを表現するのが苦手で逆にちょっかいを出して先生に怒られたり、

人と真剣に向き合わずに衝動的な行動が多かったのも今思えば愛を感じていなかったからだと思います。

そしてそれを今でも引きずっている節もあります。

多感な時代に親の愛情を感じられなかった自分が人から変わっている、と言われるのも無理はなく、

人間関係が希薄だったり、人との約束を平気で破ったり、好かれたいと努力することも少なかったと思います。

でもようやくそのしがらみから抜け出すことができてきました。

それはぼくの両親も不完全な人間であるという半ばあきらめに似た感覚を覚えたからです。

それがいつというのは定かではないですが、自分が過去に縛られすぎて苦しい思いをしているということに気が付いたからかもしれません。

そしてぼくは両親の気持ちを受け入れて、愛を持って彼らを赦そうと思いました。

(今は両親に感謝していますし、ちゃんと言葉で伝えたいと思っています)

さいごに

人を赦すってお前何様だよって思う人もいるかもしれないですが、

本当に自分が相手を許してあげると思うだけでとても気持ちが落ち着くのです。

本来ならば相手がどうであれ自分は愛を持って相手に向き合いたいのですが、そのときの状況や環境によって常にそう思えるかどうかはわかりません。

相手から嫌われようと、軽口をたたかれようと、恩を仇で返されようと、ぼくは愛を与え続けたい(意志)です。

人を赦すこと、それは自分の意志の力で、相手よりも広い視野で物事をとらえ、俯瞰した状態であることを認識するということなのかもしれません。

それはたしかにおこがましいのかもしれませんが、その効果は本当に大きいです。

現にぼくがそれで怒りが鎮まり、心拍数が安定して優しい気持ちになれたのです。

それはぼくにとって今までにない本当に衝撃的な出来事だったのです。

最後に、これを読んで少しでもみなさんのもやもやや、悩みが和らいでくれることを切に祈ります。

P.S.

変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ

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自分で突き詰めて考える頭(知恵)があったからこのような考えに至ることができたのかもしれないと思うと、

やはり両親には感謝ですね。

それじゃあ寝るぞ!またな!!